昭和51年06月18日 月例祭



 信心を頂いて、だんだん体験を致してまいりまして、今例えば私がはっきり言えれる事は、神様にお願いをするというても、お願い通りになると言う事だけがおかげではなくて、その又反対になる事もあります。いわゆる思うようになったりならなかったり、そういう思うようになったりならなかったりの中に、御神意を悟らせてもらい、また一段と信心を進めさせて頂く、信心の姿勢を作ってまいりますところから、だんだんあれもおかげであった、これもおかげであったと分かるようになる。
 思うようになった事も有り難いなら、あん時に思うようにならなかった事を思うてみると、いやぁあれが本当におかげの元であったと言う様に、あれもおかげであったこれもおかげであったと言う様な、信心が育ってまいります。そこからいわば夢にも思わなかった、いうなら信心のおかげの世界というのが開けてくると言う事が、これは私は確信をもっていえれる事。だから信心はやはりねいっときばっかり信心してみようかというのではなくて、一生がかりで信心はさせて頂かなければならないものだと言う事である。
 お願いをする、本当に不思議なお繰り合わせを頂いて、おかげを頂いて、一生懸命お願いをしたけれども、願いが成就しなくて反対な事になる。そういうおかげになったり、ならなかったりの中に、後で振り返ってみて、あれもおかげであったこれもおかげであったと分かるようになる。そこから夢にも思わなかったと、言う様なおかげが展開してくる。そういうおかげの世界に住むと言う事が、天地の親神様の氏子にかけられる願いであり、氏子信心しておかげを受けてくれよというのは、そう言う事だと思います。
 だから信心は一生がかりで、させて頂かなければならないものだと、言う事であります。先ほど私の四人の息子がおりますが、四人とも御道の教師のおかげを頂いて、それぞれの性格個性に応じて、神様がお育て下さっておるのを、もう日々目の当たりに、眺めさせて頂きながら、有り難い事だなと思います。今日お話を前講いたしておりましたのは、一番下の四番めの息子でございます。お話を頂かせて頂いておって、本当に有り難いなぁと思うのです。
 金光様、三代金光様の事柄をかき集めました、「常の生き方」というご本がございますが。そのご本を読ませて頂いて、その「常の生き方」というのを、自分の親に当てはめてみて考えておるのです。親先生のいうならば生き姿、いきざま、生きられ方というものを目の当たりに見せて頂いておる。そしてどうにかして親の心に添いたい。現在の自分の生きる焦点として、真善美の世界にすみたい。まぁ無邪気な願いですけれども、素晴らしいことだと思います。
 いつもここで頂くように、まず信心をさせて頂きますようになって、いわゆる貧争病のない世界に、住まわせて頂くおかげを頂きたい。お金には不自由しない、人間関係はいよいよ良くなってくる、家庭は円満になって来る。おかげで薬箱がなくなってしまう。医者にかかると言う様な事は、医者に手をにぎって貰うと言う様な事は、もうかいむと言って良いほどに、いわゆる無病息災のおかげを頂いている。みんなやっぱりそういうおかげを受けている。
 貧乏にんになる世界というのは、世の中にはでとると言う事ではなくてね。その人の信心なりではありますけれども、必要なものは必要に応じて、御繰り合わせを頂いていくと言う事でございます。そういう貧争病のない世界にまずは住まわせて頂く、そこから日々に有り難い御礼の申し上げれる信心が生まれてくる。今日も一家中が円満でございますと。今日も無病息災でおかげをこうむります。
 ちょうど今日はいくらいくらお金がいると思いよりましたら、万事に御都合お繰り合わせを頂いて、断りも言わんで済ましたと言う様なおかげを、先ずは頂かなければ。そこから私はその有り難いという心がね、喜びが言うなら信心のいわばその喜びが、形に現されてくるいわゆる信心生活が、出来てこなければならない。そういう生活が営まれ出来てくる。いわゆる信心の真を現すと言う事だと思います。その向こうに私は真善美の世界。いわゆる真と言う事は真。いうならば嘘のない世界。
 善というのは悪のない世界。善とは麗しの世界。優雅な世界。今日栄四郎がいうておりました中に、真善美を目指しておるというのです。生き方の中に嘘があってはならない。生き方の中に言わば悪の心どもを起こしてはならない。限りなく美しゅうならせてもらおうと言う様なところに焦点をおいておる。まぁ子供から見る親様は、そういう世界にすんでおられるように感じ信じておる。だからそういう世界を目指ささせて頂いておるというお話でございます。
 いつも自分の心の中にいわゆる嘘のない、偽りのない世界。悪のない世界。ところが自分の生活の中に嘘があり悪があり、麗しどころか醜の自分醜い自分というものを発見します。そこから言うならば改まりの姿勢が出来くるわけです。昨日の信心研修をさして頂きましたと言う、これは下から二番目の息子、光昭です。三番目の息子ですが、今日発表でした。今朝今日です。今日の朝の御理解に基づいての事でございましたが、神様は姿がみえぬ声もない、疑えば限りがないのだけれども。
 疑いをはなれて信心を疑うと言う事は、恐ろしい事だという御神訓に基づいてお話を頂きました。それに対して神の声を聞くというのを、神様があぁいいござる神様の姿が見えるまで、それは神様の姿だからと分かりながら、神の姿とそれを認めようとしない。神の声と分かりながら自分のに荷ををおうてしまう。そういう自分が悲しい。もうそこに神様というものをはっきり見極めておるけれども、いわば修行中の身であってみれば神様が、にぎにぎしい声を聞きながらもです、それを見抜く事が出来ない。
 それは神様の姿であると思うても、それが難かったり愛らしかったりする、これでは神様を見る事にもならない、神様の声を神の声として聞く事も出来ないというところまでは、神様を信じておると言う事でございます。そこに修行があるというのです。その前の日に幹三郎が、事務所でなにかを書いておる時に、ちょうど熊谷さんがいきあわせられたら、なんがを書いておられる。みたらなんか素晴らしい有り難いことを書いてあるから、ちょっと見せて下さいというて見せて頂いたら。
 「金でもない、物でもない、金はなくても物はなくても、自分の心がいつも潤うておる事を、願いとしたいという意味の事が書いてあった。だから信心の願いというものが、そういうところに置かれる。金がある間は潤うておる。物がある間はにぎやかな心であるけれども、金がなくなり物がなくなると、もう寂しくなると言った様なものではなくてね、いうならば人間の幸福というものは、金でもなければものでもないのだと、自分の心が潤うてくる。
 いつもの場合でも豊かであると言う事が、幸せの根本だと分かるところまでは分かっておるというのです。だからそれに務めて精進しておるというのです。だからいわゆる、今日四番目の息子がお話をしておりましたが、親様の姿を真善美の姿と見ておる、だから自分もその真善美を目指しておる。嘘があってはならない、または偽りがあってはならない、悪があってはならない、限りなく美しくならせて頂いて、醜い心などがあってはならないと願いながらも、中々心の中にあくが生じまたは偽りが生じ。
 どころが見苦しいものが自分の心の中に発見、いや心だけではない、もう生き様の中にそれを感ずる。そこでいうならばあいすまんというお詫びの、しるしの信心修行が出来ておるというのです。私は神様が神の声を聞き、神の姿を見、神様を疑おうにも疑う事ができないというところまでの一線上に出て、もう尚且つ人間生身を持っていますから、なかなか真善美の在り方というものが身に付いてこない。先日も私共の幹三郎が書いておったという、金やら物やらではない、もう自分の心がです。
 どのような場合であっても潤うておるおかげを頂きたいという、願いをもって精進させてもらう。そこで先日の研修の時に、あんたはどう言う様な所に焦点をおいて、その心が何時も潤うておるための精進修行をしておるのかと、まぁこれというてなんだけれども、ただ朝の親先生のお出ましにお供をさせて頂きたい。まぁ御祈念をここのお広前をすまわせて頂いて、夜遅うから大祓い信行を一生懸命やっておると。成程この頃いつもここのお広前でしよったのが、しよらんかと思ったら茶室の中で声が聞こえて来る。
 幹三郎が一生懸命一人大祓い信行をやっている。そういう大祓い信行を一生懸命させて頂いたり、朝は早うから親先生のお供をさせて頂く事に、精進をさせて頂いているけれども、一向に自分の心は潤わないといっております。だから10日間、20日間、1ヶ月間したからというて、心がうるおうのではないと言う事。それも神様をここに絶対のものとしておいておる、これは幹三郎の場合でも栄四郎場合でもそうでしょうが。神様をそこに見たり、神の声と聞いておっても、その神の姿を人の姿に見たり。
 神の声であるということが、これは神の声だと思いながらも、自分で自分の耳を覆うような事をしておる自分という、栄四郎の言い方は神をそこに見定めておる、けれども実際はなかなか真善美になれないと言う訳です。物がのうても、金がのうても心が潤うておるおかげを頂きたい。その潤いのおかげを頂きたいと思うて、朝は早うから晩は晩うまで、いうなら大祓い信行にまた神前奉仕に一生懸命つとめておるのだけれども、中々潤うという心が生まれてこない。
 だから信心というのは、例えばおかげを受けると言う事ではなくて、先ずは疑う事の出来ない神様を先ず確認する事だと言う事です。例えばなら幹三郎が栄四郎が10年、20年と同じ様な事を繰り返し、繰り返しさせて頂いているように、それこそ柳の枝に飛びつこうとする蛙のように、失敗しては又落ち失敗しては又落ちしながら、漸く柳の枝に飛びつく事が出来る様に、そういう信心を繰り返していくのでございますから。願う事が右と願って左となっても左と願って右となっても、おかげを頂いて有り難い。
 これは神様のご都合に間違いが無い。これはまだ私の信心が足りぬからだと、信心の稽古を続けさせて頂く内にです、それこそ夢にも思わなかったと言う様なおかげに出会う事が出来る。そういうおかげを目指しての信心には、迷いが起こらない。そこで例えて申しますと、いうならどういう、例えば真善美の世界とか、または何はなくてもです、そこに潤うておる心を頂きたいという高度な願いを持って、それは神様を確信するからそういう願いを持つのである。
 持つけれどもやはり失敗するけれども、やはりそれを繰り返し続けていくのである。そこで私は一貫しておる自分の信心の、いうならば生き方というものを、身につけていくおかげを頂きたい。昨日、むつやの信司郎さんのところのお婆さんのお立ちび、いわゆる帰幽日ございます。一時のご祈念に合わせてさせて頂いたんですけれども、御理解に大きなかぼちゃを頂く。かぼちゃと言う事はまぁこのへんでは馬鹿の代名詞とように申します。信心は大きな信心がよい。大きな信心には迷いがない。
 迷いが起こらないと言われている。その大きな信心とは、いうならばぼうふらになる事だ。馬鹿とあほうになる事だと、蚊取り線香なる事だ左まきになる事だ、それに火が点じられるところから、煩わしいものがだんだん落ちてきて有り難いおかげが頂けれるのです。信司郎さん大きくなるより以外にはないと言う事だと言う事でございます。ですから言うならその生き方の中にです、真善美を目指してなかなか真善美はえられないけれども、物はなくて金がなくても、心がなかなかには潤わないけれども。
 そこには神様をはっきり分からせて頂いてね。神様の間違いのいうならば親様の生き姿の中から、神様ありと信じさせてもろうて、それに向かって一歩一歩進ませて頂こうという精進をしながらも、いわば倒れ転びだけれどもその生き方、生き調子の中に一貫して自分の信心の生き方を、どのような場合であってもずっと馬鹿でいこう、あほうでいこういわゆる馬鹿とあほで道を開かせて頂こうと、言う様な信条が自分の心の中に、一つの筋金が通らせて頂いたら有り難い。
 腹立ちもいろいろありましょう、その人の信心個性によってね、これだけは一つ決し行っていこう。そういう信心の筋金のいきた信心をさせて頂きながら、しかもそこに神様を絶対なものとして、真善美に向かって進んでいくところの信心であり、いうならば物はなくても金はなくても、いやどう言う様な場合であっても、不平不足が起こらない。何時も心が潤うておると言う様な心を、目指させて頂くと言う事である。そのいうならば、あぁ家庭においてです、ひとつの信心信条としてばかとあほうで道を開こうと。
 例えばこれは一つの例ですけれども、そういうおかげを頂きたい。今日は私御神前に出らせて頂いて一番始めに頂いたのは、テルテル坊主がこうやってぶらさげてあるところを頂いた。明日は遠足だというのに、もうどうも雨が降りそうだと。いやもうぼちぼち雨が落ちてきた。明日は楽しみの遠足なのにと言うて、子供がテルテル坊主をさげます。明日は天気になぁれと言う事なんであります。だから天気になったらおかげであり、願いが叶えられなかったらおかげではないというのではなくてです。
 それはやはり願いをもつ、持たなければなりませんしまたあるのですお互いが。けれどもそれが願い通りになったからというて、有頂天になるのではない、ならなかったからというて力を落とすのではない。なくてもならなくてもおかげであるという頂き方を身につけていく。そこから信心の精進がある。いわば願い通りとか思い通りと言う事ではない、夢にも思わなかった世界が開けてくる、そういう世界にすみたい。それが信心の願いであり理想であり、又は天地金乃神様の氏子にかけられる願いなのでもあります。
 もうひとつその夢にも思わなかったようなおかげの世界。いよいよ御信徳を頂いたものの世界。あの世にももっていけ、この世にも残しておけれるという世界にすみたいとの願い。それには先ず神様のね、あるじゃろうかないじゃろうかではなくてです、お参りをしていると、神様はあると確信出来る。そしていうなら神様の心を心としてというか、親様の信心に神ん習うてというか、言うならばいよいよ僕の生き方の中に、真善美の生き方を極めていこう。
 いよいよものがあっても金がなくても、心が潤うておると言う様な精進をさせて頂こうと、精進をさせて頂きながらも、なかなかそこが頂けないのだけれども、それをうまずたゆまず出来るというのは、神様を確信しておるから出来る。先ずはその神様をいわゆる神の姿を見、神の声を聞けるところまでおかげを頂きたい。そして神の姿を見てもそれを神の姿とみまいとするような心がある、神の声と思いながらも自分で自分の耳を塞ぐような事をしているけれども。
 そこに神の声として聞くからこうやって押さえとる言うなら、自分の我が侭が出て来ると言うのです。自分のめぐりが出て来ると言うのです。それでも尚且つそれに向って進んでいくという生き方、これは神様をそこに確信しての信心のいわば生活、信心生活のあり方が神様を信じての生活が出来る、そして本当に真善美の世界に住む様なおかげを前提として、貧争病のない世界に住まわせて頂く。日々を嬉しゅう有り難う過ごさせて頂き、御礼の信心生活が出来る。もう本当に信心も出来ませんのにおかげを下さるのです。
 そこからいよいよ謙虚な信心が生まれてくる。今日私は今朝から二人の私の息子達の信心を、まぁ言わば土台にさせて頂いた。そりゃ中々よちよち歩きですけれども、二人共ここに神様を信じてやはり進もうとしているその姿勢をね、皆さんに聞いて頂いて、皆さんの信心はどうだろうか。ただおかげを頂きゃやっぱ神様はござるね、おかげを頂かなかったらもう、神も仏もあるものかと言った様な、まぁ取った様なそういう信心の心の中に、緩みが住む様な事のない信心をいよいよ身に付けて行きたいと思います。